水上氏のバックボーンを知ってみたい!
2024年12月から連載が始まったこの企画。約1年間、毎回違ったテーマについて解説していただきましたが、19回目となる今回はとうとう最終回となります。
最終回はこれまでのインタビューの総まとめとして、「水上氏のトレード人生」についてうかがってみたくなりました。
為替ディーラーだった時代のことはもちろん、それよりもずっと以前の幼少期から語っていただき「人生はドラマだ」ということをあらためて感じるインタビューとなっています。
幼少期~大学生時代には意外な一面も?
編集部:今回はこれまでとはちょっと毛色の違うテーマですが、水上さんの人生を知ることは、広い意味でいえば「水上流トレード」の背景を知ることにもなると思いますし、僕個人としてもぜひ聞いてみたいなと思っていまして、ぜひお願いします。
まずは生まれからお伺いしたいのですが、水上さんはどちらの出身でしたでしょうか?

水上:生まれは和歌山県の新宮市というところです。父は製紙会社に勤めていて、その工場のある新宮市にいたときに生まれました。ただ両親ともに静岡出身なので、関西弁にならずに標準語のまま育ってしまったんですけどね。
僕は体が弱くて、小学校2年生くらいのときに腎臓炎で3か月くらい入院したこともありました。そのときに病院食しか食べられなかったので、その反動で食いしん坊になったというところはあります。
小学校高学年になると、父が静岡県清水市に転勤になって、そこから高校卒業まで静岡県に住んでいました。
編集部:そういえば現在、水上さんの公式サイト(http://www.banya-mktforecast.jp/)にも「おいしいお店紹介」というコーナーがありますね。小学生の経験がこのコーナーの誕生の背景にもなっている…のかもしれませんね。
中学校・高校時代はどのように過ごしたのでしょうか?

水上:中学校のときに父が会社を退職して、学習塾を始めたんですよ。
その学習塾を始めるにあたって清水市から静岡市の方に移って、そこで高校まで育ちました。ちょうど人口が爆発的に増える高度経済成長期の頃だったので、塾も順風満帆で大きくなって、ある意味とても恵まれたところもありましたね。
中学は静岡市立の学校に通いました。実は絵心があって、美術の先生に高く評価していただいて「お前は東京芸大を目指した方がいい」という話もあったんです。でも幼心に「絵では食べていけないだろう」という気持ちがあって、高校に進学しました。
編集部:なんと、そんな特技があったんですね!「もしかしたら水上さんが絵描きになっていたかもしれない」と思うと新鮮な驚きがありますね。

水上:高校は静岡県立静岡高校というところです。在学中は剣道部に入ったんですが、実は当時は肥満で、ランニングがきつくて途中で辞めました。
将来は建築家になりたいという夢を持ったこともありましたね。でも数学ができないということでことごとく否定されて。
編集部:う~む、僕は現在の水上さんしか知らないので、なんだか意外な一面ばかりです(笑)

水上:ただ世界史についてはものすごく得意で、必ず1位か2位を取っていて「世界史の水上」と呼ばれていました。あとは倫理社会も得意でしたね。
たまたまそのときの先生がシベリア抑留を経験した方だったので、どれだけソ連がひどいことをやったのかを知るために、逆にマルクス・エンゲルス主義を研究された方でした。
そのため、高校生の倫理社会はマルクス・エンゲルス主義についてしか勉強していないという感じでしたね。
編集部:なんとも、個性的かつ時代を感じるようなエピソードですね…。
その後は大学に進学されてますよね。プロフィールを拝見すると上智大学とのことですが。

水上:高校時代から「国連に入ってみたい」という、非常に強い海外志向があったんです。
上智大学に入ったのは「そこに行けば何もしなくても英語ができるようになるだろう」という、非常に若者らしい考えがあったからですね。
編集部:いやいや、そうだとしても上智に合格できるのはさすがです。学部は経済学部だそうですね。

水上:経済学部・経営学科でした。経営学を選択した理由は、組織論的なことに興味があったからです。
平たく言えば「人をどう動かして最大の効果を生むか」ということで、ドラッカーなど経営学について学んだんですけど、大学で勉強したことはその後の人生においてもけっこう役に立ちましたね。
あとクラブとしては、男声合唱のグリークラブというのに入って、3年4年は部長をやっていました。
グリークラブに入った理由というのも、決して歌が好きというわけではなく組織論的なところで(笑)。「男ばかりの組織をどう動かすか、実際に経験すればいい」などと青臭いことを考えたというのが理由でした。
三和銀行に就職した驚きの理由
編集部:大学を卒業したあとはいよいよ「三和銀行の時代」になるかと思いますが、なぜ三和銀行を選んだのですか?

水上:実は銀行で働くことはまったく考えておらず、最初はメーカー志望だったんですよ。
これもまた青臭い理由なんですけど、自社製品にプライドが持てる、ソニーとかホンダとかに入れたらいいんじゃないかなぁと思ってたんですね。
編集部:ええっ!そうだったんですか!?てっきり銀行を志望していたのかと思っていましたが…

水上:大学4年の、たしか9月ごろだったと思うんですけど…。すでに就職していたゼミの先輩から「上智からは誰も三和銀行に来てくれないから、人数合わせのために来てくれよ」という勧誘があったんですよね。
そこで出かけたところ、要するにそこでハメられたというか(笑)そんな感じで三和銀行に入りました。
その頃は高度経済成長期の時代ですから売り手市場だったというのもあるんですけど、面接のときも本当に人物重視で、はっきり言って成績証明を出したのは内定をもらってからなんです。
編集部:いや~、水上さんと三和銀行の出会いがそんな形だったとは…!つまり、先輩に誘われなければ、目指していない業界だったわけですね?

水上:そもそも大学生のときに、銀行に行ったことすらなかったんですよ。仕送りとかは郵便貯金でやっていたので、まったく銀行の業務というものを知らなかった。
編集部:なんと…!

水上:ただ、三和で会う人・会う人が人物的に非常に魅力的だったんです。同期にもいろんな経歴の持ち主がいて、本当に魅力ある人が多かった。
人物評価で人を採用する自由闊達とした行風と、そんな魅力ある人たちと一緒に働いてみたいと思って、銀行のことは何も知らなかったけど「何とかなるさ」という思いで就職しました。
編集部:いやはや、なんとも昭和らしいエピソードともいえるかもしれませんが、その後の水上さんの人生を考えると非常に印象的ですね。

為替ディーラーになったきっかけは運動会だった
編集部:水上さんが三和銀行の為替ディーラーとして活躍されたというのは有名です。
しかし、為替ディーラーというのは銀行に就職してすぐ任されるようなポジションではないですよね。どういうきっかけがあったのでしょうか?

水上:ディーラーになったきっかけは、とてもおもしろい話でして。
当時、三和銀行の独身者はすべて寮に入るという全寮制だったんですね。私も3つほど寮を巡ったんですけど、最後の寮は千葉県松戸市にある松戸寮というところでした。
その頃、年齢的に独身寮を出ることも近づいていることもあって「何か残したい」という気持ちになったんですね。そこで、寮生の責任者である「総務幹事」というのに立候補したんです。
編集部:そういった責任者のような役割は避けたがる人が多いのに…すばらしい志ですね。

水上:その総務幹事になって一番の課題は、寮対抗の運動会でした。
編集部:えっ…?運動会、ですか?

水上:はい。関東地区に独身寮が全部で10くらいあって、毎年寮対抗で運動会があったんですよ。
残念なことに松戸寮というのは毎年ビリだったんですが、これをどうにか1位か2位にしようということで頑張って、2位になったんですよ。
編集部:おおお、すごいですね!
しかし…なぜその話が「ディーラーになったきっかけ」につながるのでしょうか?

水上:独身寮にはどこの寮にも寮長がいるんですが、この人たちはみんな人事部なんです。だから全部、人事評価はそこでしちゃうんですよね。
寮対抗運動会が終わってしばらく経った、10月か11月くらいのことです。突然、銀座支店の次長から呼ばれて「お前、ロンドン支店に転勤だ」って言われて。
それでロンドンに行くことになったという裏話があります。総務幹事をやって寮対抗で2位にしたというのがかなり評価されたんだろうなと思います。
編集部:なんと、そういう背景があったとは…!
それにしても予想外のエピソードで驚きです。運動会がきっかけでその後の人生が変わったわけですから、人生とは本当に不思議なものですね。

水上:それで1983年にロンドンに渡り、ロンドン支店長から「為替ディーラーを命ず」と言われたんですが…ディーリングルームに入っていくと非常に空気が冷たいんですよ。
なんで冷たいのかは後で理由がわかったんですが、どうやらロンドンの支店長は東京の人事に「為替ディーラーの増員」を要望していたらしいんですよね。
それなのに着任してきたのは為替のこともまったく知らない、英語もできない奴だったと。
編集部:ええええ…!水上さんにしたら「そんなことを言われても」という状態ですよねぇ…。せっかく頑張ってロンドンに行くことになったのに、言ってみれば部署間の連携不足に巻き込まれてしまったような形ですよね…。
でも、その後は為替ディーラーとしてご活躍されたわけですから、ロンドンで為替のことをイチから教わったということでしょうか?

水上:そうですね。ただ私の直接の上司は鬼軍曹のような人だったんですよ。
上司としては、為替のことをまったく知らない奴が送り込まれてきたもんだから腹も立っていたでしょうし、もう本当に怖くて。日本に帰りたくなるくらい怖かったですね。
でも、その人に鍛えられて促成栽培でディーラーになったんです。
実際にポジションを張ってインターバンクにもプライスを出してという仕事を、半年後にはやっていました。
編集部:半年でプロの為替ディーラーとはすごい…!相当な苦労があったでしょうね…!
ちなみに、英語もできなかったという話もありましたが、現地に行ってから勉強したということでしょうか?

水上:行ったときはまったく英語ができない状態でしたね。学生時代に海外旅行をしたことはあったんですけど、これは気合いだけで行ったようなものでしたから。
ロンドンに行って、席に座って一番怖かったのが電話なんですよ。電話を取っても相手から何を言われるかわからないので、すごく怖かったですね。
でもある日、スーパーマーケットでレジを打ってる女の子に「あなたの英語はまったくわからない」と言われて、それでかなり傷ついて。そこで奮起してプライベートレッスンに通うようになりました。
あとは実務を通じて鍛えていったというのがありますね。
編集部:運命の導きと水上さんの努力と、その双方が組み合わさって、トレード人生が始まっていくわけですね…!

華やかな為替ディーラー
編集部:ちなみに「為替ディーラー」というのはどういう仕事なのでしょうか?

水上:大きくわけて2つあって、一つは「スポット」、もう一つは「フォワード」といいます。
スポットというのは、いわゆる個人FXのトレードと同じです。ただし個人とインターバンクの違いは何かというと、銀行の場合は、1億ドルを買ったら実際に1億ドルの受け渡しをするんですね。
個人FXは「差金決済」といって損益の部分だけの受け渡しなので、この違いがあります。なぜこのような違いが出るのかというと、為替ディーラーの場合は実需の取引もあるから必ずしも差金決済にはならないんですよ。
もう一方のフォワードとは何かというと、個人FXの世界では「スワップ」と言われているものです。スポットは2営業日後に受け渡しをするんですけど、実需の場合は「3カ月後に受払をしたい」とか、そういう希望が出てくるんですね。
そのときに、ドル/円でいえば日米の金利差を加味した上で、スポットを先日付に期日を先延ばしすると、この部分がフォワードになります。
編集部:為替ディーラー時代、水上さんは「三和の水上」として名を馳せたそうですね。そしてロンドン、東京、ニューヨークと、それぞれの市場で活躍されたと聞いています。

水上:ロンドンではフォワードでバカスカ取引をやって、それから東京に移りました。
当初はロンドンと同じフォワードディーラーになったんですけど、東京とロンドンは所帯の大きさが全然違うんですよね。東京に来るとフォワードで張れる金額も桁違いなんです。それで張りまくって、自分の名前も知られるようになったのだと思います。
その後、ドル円のチーフディーラーになって、ドル円でかなり激しくやりました。やりすぎてお叱りを受けたこともあるんですけどね(笑)
それからニューヨークに移って、ドル円の担当になったのと同時に、ニューヨーク支店の為替のチームを拡大することになり、チームづくりもやりました。
採用も担当するようになって、結局10人くらいのチームをつくりました。これがニューヨークらしくて人種のるつぼで、みんな非常に仲良くなって。みんなでサバイバルゲームをしたり、独立記念日にはマンハッタンでヨットをチャーターして花火大会を見に行ったりしていましたね。
編集部:まさしく「為替ディーラーとして大活躍されていた時代」という感じがしますね。
そしてニューヨークの後は、在日の外国銀行に移られたそうですね。

水上:日本の銀行にいると、当時ディーラーの処遇というのがはっきりしていなかったんですよね。「どれくらい儲けたらどれくらいリターンがあるのか」というのがよくわかってなかったので、外に出てみようかということで移ったんですけども。
ただ外銀に移ってみると、結局は「外銀の東京支店」なので、三和でやってたような大風呂敷でやるようなことはできなかったですね。ただ、欧米系のマネジメントを勉強することに関してはすごく良かったと思っています。
編集部:現在の日本のFX業界にはさまざまな有名人がいますが、水上さんのように長年為替ディーラーとして活躍してきた経歴を持つ人は非常に少ないような気がします。
あらためて、すばらしい経歴ですね…!

プロからレッスンプロになった理由
編集部:水上さんとしては、ずっと為替ディーラーとして活躍し続けるという人生の選択肢もあったと思いますが、なぜ「個人投資家を育てる」という方向に移行したのでしょうか?

水上:これは端的に言って、時代が変わったからです。もうインスティテューション(組織・団体)の時代ではなく、プライベートの時代になったからですね。
今はもう、インターバンクディーラーはほとんど機械化されていて、人間もあまりいない状態になっています。そうすると「取引している人間」としては、個人投資家しかいないわけですね。特にドル円についていえば圧倒的に投機筋が多い。
ですから個人投資家を育てていかないと、日本の国益を失ってしまうという思いがありました。そして、どう育てていかなきゃいけないかなと考えるようになったんです。
編集部:確かに、日本の投資家が資金を失うのは「海外に資産を奪われている」ことでもありますからね。
資産を失う日本人が増えてしまったら、まさしくこれは国益の損失です。

水上:そんなことを考え始めたのは50歳になるくらいの頃でした。
ゴルフに例えるなら「今まではツアープロでやってきたけど、レッスンプロになってもいいのではないか。ツアープロの経歴を持つレッスンプロがいてもいいのではないか」と思うようになったんです。
編集部:なるほど…。そういった背景で、FX業界でも珍しい「ツアープロの経歴を持つレッスンプロ」としてバーニャ マーケット フォーキャスト(http://www.banya-mktforecast.jp/)を立ち上げ、書籍を発行したり、メルマガを配信したりしつつ現在に至る…というわけですね。
現在、水上さんが目指しているものは何でしょうか?

水上:やはり、日本の個人の金融資産を増加させることです。
日本人は人がいいのがいいところなんですが、もっと自分の利権・利益を確保していかないと、食われるだけというのを知ってほしいですね。
私がよく言っている「jaja(順張り後出しジャンケン)」をやれば、個人が利益を出せるようになると思うんです。それを一般化したい。
みんなが儲かるようになればみなさんも喜ぶし、国益にもなる。そういう繋がりを作っていきたいというのがあります。
それが私にとってはライフワークになっているということですね。
編集部:その思いについては、僕も同じですね。この企画では、今回を含め全19回にわたりさまざまなテーマで「為替相場を生き抜くため」の基礎知識をうかがってきました。
初心者トレーダーにはぜひこの連載を何度も読み返してもらって、成長に役立てていただけたらと思います。
最終回には「映画化してみたい」と思うほどおもしろい水上さんの人生ドラマも教えていただくことができましたし、非常にいい連載になりました。本当にありがとうございました。
今後も水上さんと共に、日本の個人投資家が資産を増やしていけるように、メディアとして努力していきたいと思います。
長期間にわたる連載へのご協力、誠にありがとうございました!

この記事の執筆者
エフプロ編集長
齋藤直人
SAITO NAOTO
略歴
紙媒体で約20年の編集経験を積み、趣味系雑誌4誌の編集長を歴任。雑誌の特集記事だけでなく、企業とのタイアップ企画、地域活性化事業への参画など、コンテンツ制作力を活かして幅広いフィールドで活躍。国会議員、企業の重役、スポーツ選手、芸能人などジャンルを問わず幅広いインタビュー経験を持つ。現在は株式会社キュービックのエディターとして、エフプロを中心に記事クオリティ向上に尽力中。
